南外山(みなみとやま)城

2017年9月25日撮影


◆別名:

堀尾孫助屋敷

 

◆所在:

小牧市南外山421

 

◆交通:

 

◆歴史:

城主の堀尾孫助は鎌倉時代末期に、この辺り一帯を支配していた豪族で、平安時代、藤原吉国の末裔がこの地に入り土着した一族と考えられている。

 

後の戦国時代には、南外山城から6キロ程北西にある御供所城で堀尾茂助(義晴:豊臣三中老の一人)が産まれているが、こちらの堀尾氏は高階氏の支族を名乗っている。

 

高階氏は飛鳥時代の皇族である長屋王の子孫である高階氏の子孫で、丹羽郡御供所を領有しており、高階邦経は娘を後伏見天皇の後宮に入れるなどして勢力を築き、一族の人物をこの地に配したと考えられる。

 

高階邦経の玄孫にあたる忠泰は尾張守護の斯波氏に従い、各地を転戦。その後、堀尾氏を名乗っている事から考えると、藤原氏系の堀尾氏(孫助)の系統が途絶えたため、忠泰が堀尾氏の名跡を継いだ可能性が高いが、堀尾孫助、堀尾忠泰ともに資料が乏しく、あくまでも推測の域を出ない。

 

室町時代、堀尾孫助の屋敷がどのような形であったかは不明だが、織田信長の尾張支配を経て、豊臣秀吉と徳川家康が小牧長久手で戦いを始めると、小牧城の支城として、周囲の豪族の館は砦に改修されていき、屋敷跡をも南外山城として、小牧城の支城の役目を果たす事になり、戦後は廃城になったと伝わる。

 

◆現在:

八幡社とその東にある妙楽寺一帯が城跡と言われており、八幡社境内に石碑と看板が立っている。

看板には社の北側から堀や住居跡の遺構が発見されたと記されているが、現在は埋め戻されており、見る事はできない。